はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

読書メモ『わかりあえないことから』~演技と即興と

平田オリザ『わかりあえないことから---コミュニケーション能力とは何か』を読んだ。ざっくりまとめると、現在の日本社会が「異文化理解能力」と「日本型同調圧力」のダブルバインドにあっているために特に子どもや就活生は戸惑う場面が多いが、演劇を活用した国語教育などで「対話」能力や「共感」能力を身につけることで国際社会はもとより「わかりあう文化」が崩れた新しい日本社会を何とか生きていこう、という話だ。

早速だが、堂本剛を見ていく上で新たな視点を獲得したので紹介したいと思う。著者は劇作家であり演出家であるため、ところどころで俳優の演技に触れている。本論の主張から脱線した話題であるため後ろめたさを感じつつも、少し長く引用したい。

人間は何かの行為をするときに、必ず無駄な動きが入る。たとえばコップをつかもうとするときに、(略)手前で躊躇したり、一呼吸置いたりといった行為が挿入される。こういった無駄な動きを、認知心理学の世界ではマイクロスリップと呼ぶそうだ。すぐれた俳優もまた、この(略)マイクロスリップを、演技の中に適切に入れている。この無駄な動きは、多すぎても少なすぎてもいけない。うまい(と言われる)俳優は、これを無意識にコントロールしているのだろう。(p.63)

この一文を読んで思わず膝を打った。堂本剛が見せる演技のナチュラルさ、特に近年の『演技をしているのだかしていないのだかわからない状態』(注:主観です)は、この点に立脚しているのではなかろうかと。もう少し引用を続ける。

もう一点、研究の過程でわかってきたことは、この無駄な動きは、練習を繰り返すうちに少なくなっていくという点だ。だから演劇の場合、稽古を続けていると演出家から「なんだか最初の頃のほうがよかったなぁ」と言われることがままある。

プロの俳優は、(略)演技を続ければ続けるほど、動作は安定するが、そこから無駄な動きがそぎ落とされ、結果として新鮮味が薄れていく。もちろん、こういった演技の摩耗から逃れられる人もいる。(p.64)

 堂本剛の場合、演技の摩耗を避けるのが目的ではないと思うが、とにかくゆるい脚本、セリフがガチガチにかたまっておらず役者のアドリブを多く取り込み、かつ自由な動きが保証される福田脚本を好んでいるように感じる。ゆるい脚本のメリットは、シーンごとに新しい風が吹くことだ。佐藤二朗氏がブログで「一緒に芝居をするのが、夢のように愉しい。なんつーか相手俳優をワクワクさせてくれる俳優だと思うのです、彼は」と語っているが、それは確かな技術を持つ俳優同士の一発勝負の芝居がクリエイティブな作業であることを示しているのだろう。この勝負の中では演技は摩耗しようがない。堂本剛が音楽において即興を好んでいる点も見逃せない。彼には芝居においても音楽においても即興への嗜好があり、それをこなす素地がある。とても幸福なことだ。

本論から脱線した箇所を引用してさらに妄想を膨らませる行為が恥ずかしくなったのでもう終わろうと思う。

ちなみに平田オリザ氏は大阪大学コミュニケーションデザイン・センターで教授を務めているが、以前『ココロ見』に出演したロボット博士・石黒浩先生とともにロボットで演劇を創るプロジェクトをすすめている(進行形かどうかは不明)。