はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

『プラトニック』と「あの言葉」

ドラマ「プラトニック」第四話での終盤のシーン。青年が「あなたは美しいのだから女を捨てただなんて言わないで(ニュアンスです)」と諭すのに対し、主人公・沙良が、シャツのボタンをはずしながら「母親だから女の部分を大切にすることをやめた」「(医師・倉田との情事も)どうでもよかった」と告白する。その後、青年は何かしらの考えに行きついたのかほんの少し目を細め、ため息まじりに小声で呟く。「チクショウ」。

これまで一貫して文語体で話していた青年の口から飛び出すには妙に人情味に溢れていて異質なこの「チクショウ」。この言葉をめぐり、ネット上ではさまざまな解釈と考察が飛び交っている。誰に向けての、何に対しての「チクショウ」なのか。

この「チクショウ」問題で何となく思い出したのが平田オリザ氏の演出論だ。少し長くなるが引用してみようと思う。

従来の近代演劇の作り方ならば、(略)演出家は、(略)何らかの解釈をし、その方向に沿って、俳優に演技をさせなくてはなりません。俳優もまた、その演出家の解釈に応えるべく、それに近い心理状態を作り、演技をしなければなりません。しかし私の方法論は、曖昧な世界(カオス)を曖昧なままで表現するものです。そして、その解釈、判断は観客に委ねられます。

ここでは、内面を決定することは、邪魔にすらなります。内面を決定して、一つの感情や心理状態を観客に伝えることが私の望む演技ではなく、観客の想像力に対して開かれている状態が、この場面において私が要請する「演技」だからです。(『演技と演出』p.188-189)

 舞台とドラマとではもちろん事情は異なるのだろうが、平田氏の演出論とこの「チクショウ」問題は関わりが強いように感じる。すなわち青年演じるどうもとつよしは、「チクショウ」のあらゆる意味と対象を想定しつつ、かつどこにも偏らせることなく、「チクショウ」と呟いたのではないか。これは役と密着する自分と、それを客観的に眺めるもう一人の自分がどうもとつよしの中に同居し、「その両極の作業を、同時に、こなしている」(p.214)からこそ可能となる。真相は不明だが、視聴者の想像を存分にかきたてる、きわめて印象的・効果的な一言だった。

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※ここから先はドラマ後半に向けての私的な見解・推測です。他人の妄想を笑って読み流せるかただけどうぞ。

 

第四話終盤のシーンを紐解くには、序盤で展開された、元夫の愛人の沙良評がポイントとなる。

「彼女(沙良)には、普通の(大人の)女にはない凄みがある。0か100か。その間はない。(情や世間体やお金を気にしないのは)可憐で残酷な少女の作法でしょ」

沙良は青年に「母親だから女の部分を大切にするのはやめた」と極端な論理を振りかざし、下着姿ながらも「オンナ」ではなく「少女性」を露呈させた。この『プラトニック』が、男と女のラブストーリーではなく、青年と少女の物語であることの宣言ともとれる。今後、沙良は0と100、すなわち少女性(=処女性)と母性(なる幻想、と言いたい)を行ったり来たりしながら、死にゆく青年と、のじま氏が考えるところの「誠実」で「至高」な愛を交わしていくのだろう(*1)。まさに「プラトニック」に。のじまワールドでは、世間体やお金を気にせず純粋愛に生きる人が最も幸せになれるのであり、純粋愛以外の要素(肉体の快楽や裕福な暮らし)を入り込ませる余地のある「大人の健康的な身体」は邪魔になるのだ。

その狭小で屈折した人間観と社会観を生産し続けるのじま氏に、救世主はあらわれるのだろうか。

(*1) -- のじま氏の中では少女と母性は一体となっている(例:『高校教師』の二宮繭)。彼女はドラマ初回、新しい赴任先で不安になる高校教師・羽村に、「心配、いらないよ。あたしが、いるもん。あたしが、すべて守ってあげる」と制服姿で微笑みかける。