はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

読書メモ『ビエンナーレの現在』~アート・プロジェクトとしてのshamanippon

本を読んでいて、たまにピンとくることがある。文中に書かれた内容が、堂本剛の表現活動や思想、状況、その他諸々に通じるものがあるのではないかと。

ただ読み流すのも勿体ない気がするため、読書に際して何かしらの発見があった場合にはその都度メモとして残しておこう決意した。今後の彼の活動を見守る上で、より多角的な考察ができる可能性へと繋がるだろう。

ただ、ここで検索などでたどり着いてしまった人に先に申し上げておきたい。これは個人的な直感でしかなく、いくらなんでも関連性が薄い、こじつけにもほどがある、などと自分でもツッコミを入れてしまうような内容を多く含む。そして読み切れていない古い本がたまっていて新刊本に手がまわらず、時代錯誤が炸裂する。

 

早速ではあるが、今日の一冊『ビエンナーレの現在』。キュレーション批評や言説分析、社会学的アプローチ等により国際美術展の意義を明らかにする論集である。以下、第7章「ポスト・ビエンナーレの試み」(毛利嘉孝著)から引用する。近年プロジェクト型アートの増大により、アーティスト(作家)の役割が変化しつつあるという指摘である。

伝統的な絵画や彫刻の展覧会の場合、キュレーターは作家や作品を選び、それを文脈づけし、ときに理論化する存在であり、アーティストは基本的に作品を作る人だった。今日プロジェクト型の作品を作る作家は、実際のところ物質的な作品を作る以上に、場所や人を組織化したり、プロジェクトを運営するためにコミュニケーションをはかったり、ときにプロジェクト遂行のための資金を調達したりする------つまりは非物質的労働に従事する人である。(p.254) 

 つまり今の時代、アーティスト自身が、プロデューサーやディレクター、そしてキュレーター的な役割を担うようになっているという意味だ。

この箇所を読んで、堂本剛の活動のあり方が真っ先に頭に浮かんだ。彼は音楽をしているが、音楽だけをやっているわけではない。彼の提唱するshamanipponはいわば哲学の表明の場であり、音楽が中心に据えられつつも、あくまでそれは彼の世界を表現する一手段である。奈良で生まれた自身のルーツを重視し、奈良という<場>の歴史性や社会的文脈にこだわり、さらに期間限定の特設ライヴハウス<拠点>を建設し、観客や地域コミュニティに関係を動的に働きかける。この展開はアート・プロジェクトとしか言いようがない。

話はやや逸れるが、彼がジャニーズ事務所に所属し、あらゆるエンタテイメントに触れていたことが、独自の審美眼や演出アイディア、ビジネス才覚を磨くことに繋がったのだろう。ソロ活動を開始してから10年以上が経過している。作家でありキュレーターでありプロデューサーでもあるという彼の立場は、並大抵の努力や経験や才能で維持できるものではない。その背景に並々ならぬ人生とその労苦が想像できる。

ここで私が(略)重要だと考えているのは、ビエンナーレが「シーン」をつくることができるかどうか、ということである。いくら娯楽性の高い「わかりやすい」ビエンナーレを企画してどれほど多くの観客を動員したとしても、そこに継続的なシーンが存在していなければ全く無意味である。(p.265)

最後に著者は、小規模でローカルながらも海外の「シーン」とも結びつく可能性のある北九州国際ビエンナーレについて、以下の言葉で章を締めくくっている。

北九州国際ビエンナーレは(略)巨大イベント型のビエンナーレ的な感性に支えられ、均質化しつつあるアートシーンに対する異議申し立ての試みなのだ。(p.266)

 メジャーのど真ん中を経験した堂本剛が作っていく「シーン」はどういうものになるのだろうか。奈良・未来・海外。音楽という範疇を超えたアート・プロジェクトの今後の展開が気になる。

 

※以前、剛さんの活動がアートプロジェクトであるという重要なヒントをtwitter上で得ました。その着眼点がこの文章を書く上での原動力となっています。自分はアートには明るくないため、より深い見識を持つ方のアートな観点からのレビューを読みたいと常々思っています。