はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

贈与と才能と

3/29のbay fmラジオにて、以下のような発言があった(注:厳密な抜粋ではありません。ふわっと書きとっています)。

(ものづくりのスタンスとして)求める以上に自分から与える努力をしている。そうすると(ミュージシャン達は)こちらは求めていなくても、始めてくれる。(略)互いに与えると、あったかいものになる

これを聴いたとき、なんとなくマルセル・モースの『贈与論』を思い出した。どんな内容だったのか記憶があまりにおぼろげなのでamazonレビューのdvrm氏の言葉を拝借しながら紹介したい(ひどい手抜き)。

贈り物を贈り、受け取り、お返しをする、その過程にはモノを交換することにとどまらず、精神的な価値を交換する働きも含まれている。モノと同時に心がこめられた贈与交換には双務的な義務が発生する。

これだけだとわかりにくいが要は、誰かが贈与したことで相手に受領と返礼の義務が生じ、贈与が新しい次の贈与をもたらすのだが、贈与によってモノとモノとの絆、人と人との絆が、義務的かつ必然的に発生し、それが持続的な関係を構築するということだ。反対に、その義務を履行できない場合(『与える量より求める量が多い人、よく知らんのになんやかやズケズケ言ってくるだけの人』もこれに該当)は威信や自由、さらには「信用」を失う。

 

ところで、『贈与論』については内田樹先生の解説がわかりやすかったはずなどと思いブログをさかのぼっていると、興味深い記述を発見した。

才能の枯渇について (内田樹の研究室)

私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。
才能は「贈り物」である。

(略)

ある程度生きてくれば、現在自分の享受している社会的なアドバンテージのかなりの部分が「自己努力」による獲得物ではなく、天賦の贈り物だということに気づくはずである。
それに対して「反対給付義務」を感じるかどうか、それが才能の死活の分岐点である。

反対給付義務とは、この贈り物に対して返礼の義務が自分にはあると感じることである。

(略)

才能はある種の贈り物である。
それに対する反対給付義務は、その贈り物のもたらした利益を別の誰かに向けて、いかなる対価も求めない純粋贈与として差し出すことによってしか果たされない。

堂本剛のかたくななまでの「捧げる」「与える」姿勢は、こういった「返礼義務」から来ているように感じる。空や天に対しても感謝(贈与)をしながら、周囲に集まる(引き寄せられた?)一流のミュージシャンやクリエイターらとも贈与行為を続けることで、その才能はますます磨かれ、身体から切り離せない強固なものへと近づいていくのだろう。

「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。
そこまで内面化した才能はもう揺るがない。