はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

『プラトニック』と「あの表情」

ドラマ『プラトニック』第一話を観た。

主人公の相手役・青年はミステリアスだ。物腰から「やさしさ」らしきものが滲み出ているものの、ドウモトツヨシの掴みどころのない、スルリと逃げるような、まさに野島氏が言うところの「猫感」溢れる演技により、視聴者は青年の心の内を読むことができない。青年は風変わりではあるが浮遊感まではなく、あたかも現実に存在しているかのような確かな輪郭を帯びている。

それは、役への没入や憑依といった演技方法によるものではない。まずドウモトツヨシという核が中心にあり、そこに役(今回は青年)という薄い皮膚のような膜が貼り付いているような、そんなイメージだ。本人と役は密着しているが本来まったくの別人で、一定の心的な距離が保たれている(はず)。その中で、彼は、素姓の知れない青年の本質を限られた条件下で最大限に伝えるべく「抑制の効いた」身振り・言葉・表情を的確に投入することで、ヒロインはもとより視聴者をも虜にする青年の人物像を見事に形成する。つまり彼の意図した数々の仕掛けにより魅力的な青年が成り立っているわけだが、役と本人との間にはあまりにも巧みで自然な演技が横たわっているため、視聴者はその心的距離に気づくことはない。こうして「演じているのだか演じていないのだか傍目にはよくわからない」状態が出来上がる。

ところが、主人公の娘・沙莉の病室での場面は少し趣が違った。青年は沙莉から、空想の物語上での役柄を『魔法使い』と告げられる。その瞬間に青年が見せたのが『あの表情』。回想シーンを除き全編にわたって統制されてきた青年の感情が、沙莉の不意の一言で、じわっと外に滲み出てしまったのだ。『あの表情』が何を意味するのかはドラマ終盤になるまで視聴者にはわからない。けれど『あの表情』を媒体に、視聴者は青年の情動や背負ってきた過去を一瞬だけ共有し、言葉では言い表せない胸の痛みのようなもの、あるいはかすかな希望の光のような温もりを感じとることができた。たった一つの表情(主に目の色)から、である。『あの表情』だけは役作りの範疇を超えている。互いに繊細で複雑な資質を持つドウモトツヨシと青年が一体化してしまった瞬間だったのではないかと思う。ただ、この一体化・同一化も意識的になされたのかもしれない。彼はおそらく、この部分のコントールにも長けている。

役との密着は、脚本全体の理解と役柄の分析、他者の感情へのシンパシーなど、自身の経験と記憶に基づいた内面的アプローチによって発生する。想像力の問われるこの作業は、野島氏のコメント「情緒的に豊かな子は芝居をやらせても何をやらせても上手い」に通じている。だがそれだけではない。彼は技術的アプローチにも優れている。役の場面ごとの身振りや姿勢、視線、沈黙を、これしかないという絶妙なさじ加減で扱い、さらにそれらがフレームの中でどのような効果を持つのかを熟知している。脚本、演出家、カメラマン、共演者、空間、そして視聴者にも配慮しながらの、神経の細部にまで意識の行き届いた丁寧な動作は、年月をかけて培われた特殊な身体能力によるところが大きいだろう。幼少期から俳優・アイドルとして活動してきた彼は、全方向から「見られる」ことに慣れている。

先日発売されたテレビ誌の10000字インタビューで、重い役柄を演じると必然的に物思いに沈むことが多くなるのでは?との質問に、彼はこう答える。

いや、全然。(略)どうしてそういうふうにできるかというと、僕にとっては歌ったりギター弾いたりするのも、バラエティーやドラマをやるのも、結局は布団に入って寝るのと一緒だから。(略)どれもナチュラルでフラットなスタンスで接してるんです。

『ザ・テレビジョンCOLORS vol.8 GOLD  (p.16)』

どの顔も彼本人だが、どの顔も一枚の薄い膜をまとっているとも解釈できる。その膜が剥がれたとき、彼はどのような姿で私たちの前に現れるのだろうか。『プラトニック』の青年よりもずっとミステリアスかもしれない。