はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

「語られにくさ」をめぐる試論(アイドル、ファン、作品)

書店で何気なくパラパラとめくってみたこの本(『日本の男性シンガー・ソングライター』)。『日本の音楽シーンを彩った、男性シンガー・ソングライターたちの肖像を完全網羅』と内容紹介にあるとおり、60年代以降の男性ソロミュージシャンを、代表作のレビューとともに総覧できる。ときに愛に溢れ、ときに厳しく冷酷に、有名どころはもちろんのこと、知名度は高くなくても、まだ若く実績がともなっていなくても、業界内での評価の高いミュージシャンには相当な紙面が割かれている。ポピュラーミュージックの範疇にある限りは、細かい人物も丁寧に拾っている印象だ。ところが、完全網羅をうたったこの本の目次に「どうもとつよし」の名前はない。

彼を、純粋にミュージシャンとして取り扱うことは難しいのだろうか。ソロでの音楽活動とグループでの活動の方向性が違うと知っているのは、いまだ一部の人間にとどまる。いや、この本に携わる人々は知っているのかもしれない。自分で曲を書き、発表し、自分で歌い、表現をする。やっていることは、列挙されているミュージシャン陣と何ら変わりはない。それでも、ミュージシャンとしては扱えない。批評できない。この排除はどこからくるのか。身内から、という議論はさておき、やはりアイドル出身であること、いまなお現役アイドルであることが、彼を批評の文脈から遠ざけているように思う。※ある一つのものの見方の提示に過ぎないことを御承知おきのうえ、お進みください。

ファン以外の人間にとって、アイドルを語るのは難しい。ファンがアイドルを語る際にはその評価軸に「人格」のようなものが組み込まれているが、ファン以外の人間にとってはその評価軸はないに等しい。だから素朴に評価してしまうと、タレントイメージやファンにダメージを与えかねない。アイドルは究極には「存在するだけ」で成立するのであり、ファンにとってはそれが癒しとなる部分があるからだ。だから歌でも芝居でもバラエティでも、頑張っただとか努力しただとか、かわいかっただとかが十分に評価の対象となる。裏を返せば「批判」はファンにとってタレントの人格批判に値するくらい重いものともなる。作品やスキルへの順当な評価であっても、心ない言葉と受け止められるおそれがある。ことに、それがタレント自身が生み出した詩やメロディ、奏でる音色、センスといった生身に近い部分に向けられるものだったらどうだろうか(話は逸れるが、アイドルの作品が、レコードや容姿や舞台上のパフォーマンスに限らず、生きざまから非公式のちょっとした振る舞いまで想像できるすべての物事に及ぶのだと考えると、つくづく大変な職業だなと感じる)。アイドルとファンは一体であり、ファンが受け取る作品もまたアイドルと同一なのだ。アイドル・ファン・作品の三位一体と対峙することのややこしさ。独特の土壌。どうもとつよしの音楽の語られにくさは、このあたりに起因する。

以前、アルバム『カバ』が発売された頃、まきたすぽーつ氏のラジオ番組(はたらくおじさん)で彼の音楽が特集され、あれこれと考察されていた。シニカルさが蔓延していたため、聞いていて不快な思いをした人も多かったように思う。しかしここで、構成作家が番組終了直後にはなったtweetを紹介したい。

はたおじ終了。賛否はあれど葛藤しながらも受け止めてくれるファンの方もいた。アーティストはちゃんと世間に晒されて評価されたほうがいいし、これをキッカケに見方が変わる番組リスナーもいるはずと思ってやりました。まだ本質は見えてないからこそ興味深いし今後も取り上げていきたいと思います。(スーパーモリノ@super_morino 2013年6月9日)

どうもとつよしは、番組内でアイドルではなくアーティストとして取り上げられ、批評された。ミュージシャンであれば普通の状況なのだが、彼やファンにとっては貴重な瞬間だ(もちろん、一部の音楽雑誌では真正面から取り上げてもらっているが、商業雑誌ゆえに庇護されている部分もそれなりにあるように思う)。作品がいくら彼の手から生み出されていようとも、本人とはある程度切り離して考えるのが健康的であろうし、風通しがいいほうが、作品も作者も状況も磨かれていく。

作品とは、それを作った者ですら自由にはできない、むしろ作り手である自己を厳しく対象化した一種の批評行為であり、けれどもそれゆえ、それを作った者以外の誰もが、それについて自由に語ることができる、共有の存在でなければならないのです。

椹木野衣『反アート入門』p.65)

かりに、ある画家の絵がどんなに高値で売れたとしても、またある小説家の書物が、どんなにベストセラーになったとしても、それだけでは作家の不安は解消しません。むしろ、売れれば売れるほど、自分の作り出したものに、ほんとうに価値があるのかどうか、不安は高まっていくことでしょう。その人の作品が売買だけで一向に批評の対象となっていないとしたら、その不安は絶大なものとなるでしょう。

(同 p.31-32)

今後、海外でツアーをおこなうことになれば、無遠慮に「語られる」「批評される」機会は増えていく。これまで表に出てこなかった、人格から離れたところを指す忌憚なき意見に、彼は「手応え」らしきものを感じるだろう(彼はもちろん常日頃ファンが喜んでくれていることや応援してくれることにも大きな感謝を感じているだろうが、それとはベクトルの違う話だ)。その手応えはおそらく、大きな変容をもたらす。それでも彼がアイドルであり続ける限り(というか、彼は一切合切を舟に乗せようとしている)、見守る者にはそれなりの耐性が求められていく。