はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

読書メモ『ポピュラー音楽と資本主義』~いわれなき誹謗を考える

毛利嘉孝『ポピュラー音楽と資本主義』を読んだ。20世紀的なポピュラー音楽は資本主義のイデオロギーを再生産するだけで究極にはファシズムと結び付く、という思想家アドルノの解釈を思考の手がかりとして、ポピュラー音楽の歴史や視覚芸術との関係、人種と資本主義の関係、Jポップ誕生の背景と音楽産業の今後の動向などを論じるポピュラー音楽の研究書である。

かたい話はさておき、この記事を読んでいるかたがたは、ソロ活動を開始した以降のドウモトツヨシに対するネットや雑誌での厳しい意見や非難を目にして心を痛めた経験があるのではないだろうか。特に一般人(非ジャニーズファン)による「ミュージシャン気取りはやめろ」的な反発は、メディア露出が著しく少なくなった今日においても根強く蔓延っている。音楽を聴いていない上での批判や揶揄。彼らはそもそも聴く耳を持たない。

このやり場のない気持ちを少し落ち着かせることができる概念を本の中に発見したので紹介しておこうと思う。「サブカルチャー・エリート主義」について。

サブカルチャー・エリート主義は、既存の権威を否定することによって自らの立場を獲得しようとします。サブカルチャー・エリート主義は、(略)一般にヒットチャートにのっている音楽は、完全に商品化された資本主義の残骸だと考えています。その代わりにサブカルチャー・エリート主義が取り上げるのは、世間の流行からはずれた音楽です。それは難解で実験的な音楽から歴史の下に埋もれてしまったマイナーな音楽や非西洋の音楽まで、ありとあらゆる領域が含まれています。彼らはそうした音楽の中には、いまだに資本主義に汚されていない無垢な領域があると主張します。(略)それはすべての人が知っているのではなく、ある特別な人(サブカルチャー・エリート)だけが理解できるという(略)議論には、どこかで主張する人の趣味の発露とマッチョなヒロイズムが紛れ込むことになります。(p.103-104)

 サブカルチャー・エリートとは、日常の光景でわかりやすく説明すると「えっ、あんな大衆的な音楽聴いてんの?ありえない。ププッ」といったように、ヒットチャートを賑わす音楽を聴いて満足している人を嘲笑い、自分はこんな「通」な音楽知ってるし、と優越感にひたる人のことを指す(意訳)。ドウモトツヨシはこのサブカルチャー・エリートの標的にされているきらいがある。彼らの立場からすると、芸能界でメインストリームにいるドウモトツヨシがソロの音楽表現においてファンクなどを取り入れたこと自体が、自分たちの神聖な領域を侵す行為にうつったのだろう。だから聴きもせずに反発する。上から目線であれこれ言う。ささやかな自尊心を必死で守るために。

「とにかく大変なことしかなかった」と語るドウモトツヨシは、こういった負の感情を一手に引き受けてきたのだろう。サブカルチャー・エリートからの攻撃はおそらくその「大変なこと」のほんの数パーセントに過ぎない。彼を抑圧する<何か>は、いくつもの要因が複雑に絡まってできている。