はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

『プラトニック』と愛について

※以下、過去の野島作品の傾向に触れていますので、ドラマ『プラトニック』をまっさらな気持ちで堪能したいかたはご遠慮ください。

 

5月25日からはじまるドラマ『プラトニック』のテーマは、「生と死」「愛によって死の恐怖を克服することはできるのか?」。過去に野島伸司氏が脚本を担当したドラマでいうと『高校教師('93)('03)』『この世の果て』『リップスティック』などの流れを汲むことになるのだろう。

野島氏が言うところの「愛」は、私たちが想像する「恋愛」の「愛」とは違う。それは純愛であり無償の愛であり命がけの愛だ。その自己犠牲を厭わないひたむきな愛は傍目には狂気に映る。そんな愛が本当にあるのか、その愛は真実なのか、その愛によって人は救われるのかを試すために、野島氏は登場人物にトラウマを抱えさせ、家庭環境を複雑にし、少年鑑別所や女子高などある種非日常で閉鎖的な舞台を用意し、そこでさまざまな実験をおこなう。愛を確認する装置として過激な暴行シーンや極端すぎる言動が(けっこう無神経に)はさみ込まれるため、野島ドラマに対する世間の風当たりが強くなることも珍しくない。

結末はたいてい、主役男女のうちどちらかが精神的に壊れ、もう一方が生涯をかけて面倒をみていくことになる。片言しか話せない幼児のような状態の相手とはいわゆる男女の「恋愛」はできなくなるが、代わりに無償の愛や献身の愛を実感できるため、野島氏的にはハッピーエンドとなる。また、主役男女の二人がともに命を落とすこともある。それは永遠の愛を意味するため、これもハッピーエンドだ。これまで野島氏が生と死をテーマとしたときには、肉体や意志を超えたところでの「愛」が試されていたことになる。この愛は、現世的には破滅的な展開でしか確認できない。試写会時に野島氏はこのテーマについて「何度か挑戦したことがありましたが、なかなかうまくいきませんでした」とコメントを残しているが、これまではこの至高の愛の存在が衝撃的な結末に隠れてしまい視聴者にうまく伝わらなかったことを意味するのだと思う。

野島氏は今回『プラトニック』で、この「愛」の表現を堂本剛に託した。彼もまた、深く広い「愛」の概念を持つ。堂本剛の言う愛とは、死を前提とした命であり、未来へと繋いでゆくべき魂のようなものだ。人は、ただ存在するだけで愛されていい。未来永劫、属性抜きに、命は尊く美しい。堂本剛の「愛」への信念は、野島氏の目指す「愛」をすでに内包している。彼の「愛」の表現は、どんな破天荒な展開にも霞まないだろう。死をただの悲劇にはしない。死期の迫った青年という役柄は、実は、常に死(を前提とした愛)を傍に置いて生きている堂本剛そのままなのだ。その表現には必ず「救い」があるはずで、野島氏はおそらく、このテーマを『プラトニック』で終わらせることになる(もっと言うと、引退されたため叶わないが、ヒロインを桜井幸子さんが演じていたら野島氏的には完ぺきだったように思う。彼女はいつも、母性の象徴とされていた)。

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それにしても重い。音楽に上野耕路氏を起用して虚構性をやや高め、幻想文学のような雰囲気を醸す狙いは正しい(まだ聴いていないけれど)。風変わりで飄々としているであろうその劇伴は、真正面から受け止めるにはあまりにも辛いこのテーマと視聴者をつなぐ緩衝材となってくれる。

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ところで『プラトニック』の青年は死期が近いが、『高校教師('03)』の主人公・湖賀郁巳も同じように脳腫瘍を患い、余命わずかという設定である。内容を確認しようと検索していると、野島ドラマBBSにて、主演俳優の精神状態にまつわる投稿記事を発見した。真偽は不明だが、そのまま貼りつけておく。

★現に、第1話の収録は精神にもきつくて、最終日には立っていられないほど、体調を壊したと本人も「日記」に書いていたみたいです。演出の鴨下さんにお礼の挨拶も出来なかったとか、それほど、野島さんの作品って演じる側にとっては、厳しいものなのでしょうか?

ドラマの話題が中心だった5月24日のラジオにて、少し茶化したように堂本剛が残した「演じるって、しんどいですね・・・」の言葉が身に沁みた。