はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

読書メモ『「アイドル」の読み方』

香月孝史著『「アイドル」の読み方---混乱する「語り」を問う』を読んだ。女性アイドルに焦点をあて、古くから社会で共有される「アイドルらしさ」のイメージと今日のアイドルの新しいあり方を比較しながら、アイドルという芸能ジャンルの特性を明らかにしようとする論考である。女性アイドルと男性アイドルとでは「アイドル」たりえる成立条件が大きく違うとして「本書では男性アイドルを扱っていない(p10)」と記されているが、その内容の多くの部分は男性アイドルにも関連が深く、興味深いものだった。以下、個人的な備忘録として要約を残しておきたいと思う。

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「アイドル」という言葉は、文脈によってその意味が変動しやすく、たとえば「国民的」といった称号を与えられながらも軽蔑の対象に設定されることがある。「アイドル」という言葉が、ある定型的なステレオタイプを想起させるほど説明不要でポピュラーであると同時に、継続的に動向を追うファンでなければ楽しみ方を十分に理解しえないという「一部の熱狂的な人のためのもの」といったニュアンスをはらんでいるからである。語りの場での混乱を緩和するため、アイドルの語義を3つに分類する(p26)。

1)偶像崇拝としてのアイドル(辞書的な語源を重視。カリスマ性があり尊敬や憧憬の対象。古くはジョン・F・ケネディエルビス・プレスリーもアイドルと呼ばれていた)
2)「魅力(容姿や若さ)」が「実力(歌や演技の上手さ)」に優るものとしてのアイドル(<過程>としての未熟さ、成長途中であることにアイドルの要素を見出す。人気者であることがその根拠であり、タレントに限らず職場のアイドルなども含む)
3)芸能ジャンルとしてのアイドル(主に歌やダンスを形式的な本分とする人々、とりわけグループアイドル。全国的に各種マスメディアでおなじみの有名グループから、2010年代に活発になった地下アイドルや地方アイドルを含む)

※(1)と(2)は「存在としてのアイドル」であり、(3)のジャンルとしてのアイドルとは異なる性格をもつ
3)のジャンルとしてのアイドルは特に語られやすい。社会のなかに「アイドル」について「他者の欲望のお仕着せ」「操り人形」「主体的な自己表現の欠如」といった70年代から続く定型的(かつ否定的)なイメージが強固に浸透しているからである。しかし実際のところ、アイドルというジャンルが消費されるにあたり、ファンにとってその享受の対象となるのは、アイドル当人たちの自意識(虚構から染み出す生身の部分、パーソナリティ)の発現である。今日の「(女性)アイドル」は、主活動の場を従来のようなテレビメディアではなく、ライブやイベントなどアイドルとファンが空間を共有できる「現場」やインターネット上(特にSNS上)に移行させており、本人のパーソナリティを開示することがコンテンツともなっている(しかしファンに享受される前提がある以上、完全なる私生活の局面ではない)。この表舞台と日常生活とが分かちがたく、「表」と「裏」のあわいにあるものが具現化している状況は、ファンのアイドルへの愛着を持続させる強い動機ともなる一方で、アイドルの心身への負荷や侵害との線引きを難しくしている。
また、特に音楽面に関して、アイドルは”低級”と捉えられる存在だった。それはアイドルが、音楽実演のスキルを絶対的に求められる者としては存在してこなかったためであり、自作自演(作詞作曲に代表されるような音楽制作による表現活動)を重視する世の流れの中でも、主体的かつ直接的に「自己表現」をしていたわけではなかったためである。しかし今日の(女性)アイドルは、音楽を直接に通してはいないものの、ステージ上やSNS上で積極的に「中身」を絶えず吐露することで「自己表現」をしている。パーソナルな心情の発露が、受け手であるファンにも常に期待され、受容されている。こういった、人格の相互承認をはらむ往還のなかで、アイドルとファンのコミットがますます強くなっている。

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要約ここまで。以下、私感。

テレビメディアに選ばれ、脚光を浴びた旧来型のアイドル・どうもとつよしは、今も引き続きジャンルとしてのアイドル業を営み、「存在としてのアイドル」の地位にも置かれている。内実はどうあれ、そういうことになっている以上、その知名度とは裏腹に、あらゆるジャンルで風当たりは強い(最近の顕著な例:映画の吹き替え)。いまだにそうなのだから、彼がソロとしての音楽活動を始めたとき、外野から相当な反発や中傷があったことは想像に難くない。アイドルというものは、自主性の対極に位置すると想像されているのだから。アイドルが自分の思いを詩と曲に託し、総合的な音を決定し、ビジュアルや世界観を含めてセルフプロデュースする。それはアイドルの定義を揺るがすという意味でタブー中のタブーだったのかもしれない。

アイドルへの偏見が根強い以上、彼の音楽をニュートラルな感性で聴ける人間はそんなに多くない。自分自身を振りかえってみても、数年前にラジオで244 ENDLI-xの曲を「アーティスト名を知らずに」聴いていなければ、彼の音楽に興味を持つことはなかっただろう。(自戒も込めて)そんな、名前や肩書にまどわされるような社会は早くなくなってしまえ、と思う。と同時に、着実に増えている彼の音楽ファン、特に、彼のきらびやかなアイドル時代を全く知らない若いリスナーの存在を頼もしく思う。いいものはどうしたって後世に残っていく。