はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

読書メモ『ポピュラー音楽の社会経済学』

『ポピュラー音楽の社会経済学』(高増明 編)を読んだ。「CDが売れなくなった」日本の音楽シーンをめぐる厳しい状況を、経済、ビジネス、技術、社会的観点から総合的・体系的に分析した一冊。読んでいて気になった点をまとめた。※個人的な関心に基づく断片的な要約ですので、気になる方は全編を一読されるのがよいかと思います。

第1章「日本の音楽産業の現状と問題点」

  • 日本の音楽産業でもっとも深刻なのは、音楽ソフトの生産額・販売額が急速に減少していることである。理由としては、一般に、音楽コンテンツのコピー、違法ダウンロード、購買層の高齢化などが指摘されるが、それらを本質的な原因と考えるのは間違っている。真の問題は、他の文化や消費財と比較した場合の音楽コンテンツの相対的価値が年々低下していることであり、音楽に対する人々のリスペクトが小さくなっていることである。
  • 制作サイドは、確実なセールスが期待できるジャンル(アニメ、アイドル等)にプロモーションを絞る。すると必然的に、その周辺的なジャンルは切り捨てられる。新しい音楽を創造しようとする野心的なアーティストも減少する。
  • また、景気の低迷をうけて、消費者の音楽的嗜好も、突出したものを好まずに、平均的なものにあわせようとする傾向が出ている。その土壌では、音楽に対する批判的なコメントや批評が受け入れられにくい。結果、同じような音楽コンテンツだけが市場に残り、大衆はそれを喜んで受け入れる構造が形成されている。

 第2章「日本の音楽産業の構造」

  • 本来、アーティストが新しい音楽を主体的に作り出していくのが望ましいが、レコード会社の規模よりも音楽を利用する産業(放送局、番組スポンサー企業、カラオケ産業等)の規模がはるかに大きい現状では、テレビ局やスポンサーの意向により音楽の傾向が決定されている。
  • また、アメリカと比較してもアーティストの印税は少なく、まるでプロダクションで働く社員のように、わずかな給料をもらって生活している。

第9章「2000年代の日本のヒットソングの構造分析」

  • 1980年代後半から、日本のポピュラー音楽の生産工程が劇的に変わった。歌手、シンセサイザー、コード進行という三つの要素だけで楽曲が簡単に構成でき、特別な演奏技術も必要とされなくなった。
  • 本来、ポピュラー音楽は自由な表現が許されている。しかしそのイメージとは裏腹に、メロディのパターン化と王道コード進行への依存による形骸化した保守的な生産工程を経て、同じような楽曲群が世に送り出されている。
  • これらの「ガラパゴス」化した楽曲群は、日本人の感性に合うというよりは、むしろ音楽を流通させる側の「刷り込み」によって、感動するように植えつけられたものだと言っていいかもしれない。日本の音楽シーンは海外の動向から乖離し、独自のものとなっている。

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以下、雑感。

11月12日発売の新曲をラジオで聴いた。ワンコーラスだけを聴いて決めつけるのもどうかと思うが、そのサウンドから「安定の」「王道の」「保守的な」といった形容詞が思い浮かんだ。良くも悪くも「変わらない」。彼らの曲や歴史を網羅しているファンの皆さんにとっては、もしかしたら何かしらの違いがあるのかもしれない。しかし一般層が聴くぶんには、ああ、また、あの感じね、と耳に引っかかりを残すことなく忘れ去られていく類の曲のように感じる。同じ「変わらない」にしても、昨年の「まだ涙にならない悲しみが/恋は匂へと散りぬるを」が確信犯的に「変わらなさ」を追求していたのに対し、今作からはこれといった戦略を見出すことができず、全体的にスケールダウンしているのが気になる(もちろん、この印象は今後くつがえる可能性がある。また、カップリングの堂島×CHOKKAKUが攻めることでバランスをとっているのかもしれない)。

この「変わらなさ」に安心する人もいる。もどかしさを感じる人もいる。評価は難しい。ただ、日本のポピュラー音楽をめぐる諸問題に、彼らも私たちも、巻き込まれている。

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彼らに関してはじめて購入したDVD/Blu-rayは、2011年1月1日の東京ドーム公演が収録されているものだった。時間がなくて繰り返し見ていないのが悔やまれるのだが、当時の何の前提知識もない自分が初見で気になった曲が「銀色暗号」だ。すぐさまクレジットを確認するためにパソコンに向かったのを覚えている。不思議な曲だと思った。聴きなじみのない曲だと思った。かたくなに隠秘な詞と、宇宙を彷徨うようなメロディに、背筋がゾクゾクした。まさかとは思いつつ、やはり彼らが作った曲だと知って驚いた。

DVD/Blu-rayで見る範囲でしかわからないが、彼らの作る曲はおもしろい(※つよしさん作詞こういちさん作曲を想定しています)。給料や世の動きを考えたり、権力に媚びる必要がさほどなかったからか、または人間性がそうさせているのか、まやかしや濁りがない。業界に当たり前に蔓延る慣習や大衆の意識に毒されていない。アレンジとの相性はあるものの、巷でヒットしているありふれた楽曲群とは一線を画している。彼らの合作を望む声が多いのも頷ける。

ただ、この潔癖なクオリティを守るのも大変なことだろうと思う。お手軽なパターンに依存しないぶん、生みの苦しみが増大する。彼らがイメージする「二人」像を存分に音楽で表現するための十分な時間と環境が、今の彼らに用意されているのだろうか。これは自作曲に限った話ではない。それらが整わない限り、無難な傾向は今後も続く。