はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

『プラトニック』と夢と現実(2)

『プラトニック』最終話を見た。

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※ドラマの見方は人それぞれです。以下の文章は、ごく個人的な『プラトニック』の世界の解釈です。制作サイドの意図したものから外れている自覚があります。多種多様な解釈を楽しむスタンスをお持ちのかたのみお進みください。

※頭が整理しきれていない状態で文章をアップしていますので、次回更新時までに、より的確な表現が浮かんだ場合には加筆修正することがありますが、大意は変更しません。

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沙良は前回、佐伯から「青年の腫瘍が小さくなった(生きる可能性が出てきた)」という事実を明かされたが、青年からは直接その話を聞かされていない。青年も、沙良がその事実を佐伯から聞いて知っているということを知っているが、なぜか二人の間ではその話題には触れられない。既に救世主としての道を進むことをかたく決意している青年にとっては、それを話題にあげるとその意志が阻まれる可能性が出てくるからであり、沙良にとっては、沙莉の命と青年の命を天秤にかけるような後ろめたさを意識せざるをえなくなるからである。だから「今日と同じように明日がくればいい」などと惚けながら、相変わらずの日々を過ごしていた。

ところが沙良は、倉田医師から、青年が手術を受けない意向であることを聞かされる。恋人同士なら全てを共有し合いたいと願う沙良にとって、命にかかわる重大事を共有できていなかった、わかっていなかったという事実は、「女」としてのみじめさを再び痛感させるものであり、「女」としての自尊心を揺るがすものであった(*1)。雨に濡れる花畑で沙良は決意する。佐伯から提示されていた離婚という条件をのもう、青年との夢の世界を諦めて沙莉の命を救おう、と。それは「女」という自分を深く見つめることなく一旦留保した上での「母親」としての現実的な選択であった。

沙良は青年に離婚を切り出す。もう沙莉のことは忘れてほしい、命がすべてだ、自己満足なヒロイズムは迷惑だ、現実から逃げるな、あなたとは偶然だったのだ、と。母親としての顔を全面に押し出す沙良には、女としての沙良との世界に生きたい青年の言葉は届かない。しかし救世主として必然や運命を信じたい青年は、コンビニ強盗との自殺行為のような絡み合いの末に死を迎える(*2)。

沙莉の緊急手術の知らせを受けた沙良が病院で目にしたものは、手術室に運ばれる青年の心臓だった。沙良は、夢と現実が交差したその光景を受け止めきれない。これまで真正面から考えることを避けてきた「青年の喪失(が沙莉の生に直結すること)」の大きな衝撃は、沙良の「女」としての部分と「母親」としての部分を完全に決裂させ、包括的なパーソナリティを崩壊させた。

沙良はその後、青年との夢と、佐伯と沙莉との現実の狭間を生きていく。夢から醒めそうになるたびに(*3)、防犯ビデオの映像の中の美しい青年に笑顔の魔法をかけられる。今日と同じように明日がまた来る。沙良は永遠に青年との夢から醒めない。そして現実社会でも「(作り)笑顔」をしていれば物事はうまくまわる。それは沙良との二人だけの世界を夢見ながら沙良の現実を常に意識させられていた青年ならではの、沙良と自分を救う唯一の魔法だった。

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(*1)=沙良はマーサとの電話で「彼のことは何でもわかるわ」と虚勢を張っている。また和久の「(腫瘍が小さくなったからには)彼のほうはずっとそばにいなくてもよくなったんだもんね」という何気ない一言に動揺がみえる。沙良は青年の真意はどうあれ、青年が自分から離れていくことで「女としてのみじめさ」(byのじま氏)を味わいたくない一心で、このあと自己防衛として母親モードを発動したと考えられる。

(*2)=青年は、佐伯の「男は結局、行動しかない」という思いに共感していた

(*3)=マーサいわく、女は忘れっぽい

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沙良と青年は、和久と美和の恋沙汰を「傷のなめ合い」「勘違い」「共依存」などの用語で一蹴した。彼らとは違い、沙良と青年は、自分たちが互いに運命の人でありプラトニックの愛で繋がっていると信じていた。自分たちはきれいだ、汚れていないと。しかしそれは疑念や不安、葛藤などのくさいものに蓋をし、相当な維持努力をした上でしか成立しないものだった。その迫りくる生々しさは簡単に夢の世界を破壊しうるため、青年は自らの「死」をもってしかその脅威を払拭することができなかった。沙良の精神も、夢(女)と現実(母親)を同時に都合よく同居させるタフさを持ち合わせておらず、自らの思考をストップさせるしかなかった。

この物語では、プラトニックの愛は、その愛を信じることでしか存在しない。信じるのをやめてしまえば、すぐにただの「傷のなめ合い」「勘違い」「共依存」に転じてしまう。二人の世界、二人の愛は幻なのだ。幻を永遠にしたい二人の、自己犠牲をともなう維持努力の成果に、美しさを感じるか、悲劇を感じるか、呆れるかは、その人次第である。

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細かい考察(主に青年)はまたの機会にしたいと思う。