はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

『プラトニック』とレイヤー青年

プラトニック第5話を見た。※たくましい想像力で補っています

主人公・沙良と青年の生い立ちが明かされ、二人の共通点が浮かび上がった。ざっくり言うと、家庭において居場所がなかったこと、自分のアイデンティティに無関心に生きてきたこと(他人志向で生きてきたこと)、自分は価値のない、必要のない存在だとどこかで感じていること(沙良にいたってはそれに気づかないほど感情が鈍っていた)などである。その二人が、能力や努力や財産やそれこそ美貌に関係なく、「自分を必要としてくれる」「自分を自然と愛してくれる」「自分をゆるし、包み込んでくれる」(ように思われる)運命的な相手にようやく出会い、「恋」に落ちた。この時点で、自分自身で抑制していた感情が融解し、互いが互いの救世主となった。

だが、問題はここからだ。青年は主人公の娘・沙莉の病室で、白血病の少年の話をする。白血病の少年がクリスマスソングを歌ってほしいと頼んだら、何万人もの人が歌ってくれた。少年は病室の窓を開けて笑顔で手を振った。それが「僕にはわからない」、と。青年は、大勢の人から歌ってもらうことを願ってはいない。たった一人の、特定の誰かに、歌ってほしいのだ。その誰かに、死の恐怖から救ってほしいのだ。

沙良が青年を救うには、どうすればいいのだろうか。ただただ愛すれば、青年は死の恐怖におびえなくて済むのか。愛を掲げるのなら、ともに肉体を捨て、永遠の愛に生きる道もあるだろう。しかしそのとき、沙良の残された家族(娘)はどうなるのか。母親として(という言い方はしたくないが)の沙良はどこに向かうのか。6話以降は、このあたりに対する二人の思いのすれ違いを描きながら、5話のような夢うつつの「恋」ではなく、現実を踏まえた上での「愛」の限界が試されることになるのだろう。青年は沙良に、「ノリ・メ・タンゲレ Noli me tangere」の言葉を残せるのか。

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激動の回だけあって、青年はシーンごとに、これまで見せたことのないさまざまな顔を見せた。同じ青年でありながらも、間違いなく何かが違う青年を成立させるどうもとつよしを見ていると、レイヤーという言葉が思い浮かんだ。Photoshopなどの画像処理ソフトによく搭載されているあの機能だ(もっと素敵な例えはなかったのか、自分。視覚の参考までに→レイヤーの基本)。

その薄く透明なレイヤーには、一枚一枚、その時々の青年像が描かれている。そのレイヤーが何枚も何枚も重なった多層的な状態で、さらに表層の一枚だけに靄をかけて不透明度を高めたのが、これまでどうもとつよしが演じてきた合理的で感情をあらわにしない青年だ。そのフィルムを上から何枚か剥がすと病室でのちょっと不気味な青年になり、もっと剥がすとラブホテルで美和と対峙する青年になり、さらに2枚くらい剥がすとテツの家で苦しむ青年になり、さらに何枚も何枚も剥いでもう最後の一枚かどうかの瀬戸際のところに、沙良に「あなただったんだ・・・」と涙を流しながら微笑む無垢な青年がいる。そして、この無垢な青年のレイヤーを剥がしたところに、ほんとうのどうもとつよしがいるのではないか。そう思わずにはいられないほど、本人の資質に肉薄した純粋さの表現だったように思う。第1話で「魔法使い」と言われた後に見せたあの表情のように。

シーンごとに青年の印象は変わるが、別人ではなく、どれもが確かに青年だという説得力を持つ。青年としての連続性が失われていない。どの時点の青年も、目には見えなくとも他の時点の青年を背負って立っている。それは青年を覆うレイヤーがどれも透過性を保ち、レイヤーごとの、レイヤー同士の、ミクロな次元での表現の摺り合わせが成功しているからこそ可能となる。傍から見ても、神経をすり減らす、気の遠くなるような作業だ。しかもそのレイヤーは、大まかには脚本家や演出家が描いているものの、細かい脚色や最終的な仕上げなどの最も気を遣う部分はどうもとつよしに丸投げされているのだから。

ちなみに、こういったレイヤー感あふれる芝居は、『天魔さんがゆく』第8話でも発揮されている。この回では冒頭から最後まで、法界天魔はたった一枚だが金田一少年の薄い透明レイヤーをまとっている。法界天魔はそのままに、気づくか気づかないかの絶妙なラインで金田一少年風味が感じられる。と思うのだが、気のせい、かもしれない。