はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

『プラトニック』と僕と俺 --補足--

前回の記事が書き込み不足のため、補足しておこうと思う。

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※ドラマの見方は人それぞれです。特にこの『プラトニック』は、ご丁寧な説明が省かれていますので、視聴者の経験則や人生観、願望、こだわり等が大きく反映され、同じストーリーを追っていても全く別の解釈を生み出すタイプのドラマのように感じます。そのことを前提に、さまざまな感想や考え方に触れることが、今後のより豊かなドラマ視聴体験に繋がる、と確信できるかたのみお進みください。

※この感想は、あくまで個人の解釈であり、正解探しをするためのものではありません。普段の自分の世の中の見方がそっくりそのまま飛び出てきたようなものです。ネット上の他のかたがたの感想を見ると、自分の疑り深さを痛感させられます。ドラマ本編とは別物、と捉えてくださるとこちらも気が楽です。

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第6話は、沙良と青年の「二人だけの世界」の意識の差異を描いた回のように思う。

沙良と青年は運命的な出会いを果たし、お互いがお互いを必要とし、心と心の奥で繋がるようになった。その「二人だけの世界」は周囲にも明らかにわかるほど濃密で、二人はその世界で安らぎと満足を得ていた。二人がそう信じるのなら、二人は紛れもなく愛しあっていたのだろう。

しかし青年には、沙良にはないもう一つの側面があった。それは死を目前とした恐怖にさらされていることだった。青年はそれを「自分が忘れ去られる恐怖」とし、この世に二人だけ、という他から隔離された究極の境地に至れば必然的に忘れ去られることもない、だから死の恐怖も克服できる、そう考えていた。

青年は「二人だけの世界」に浸ることで死の恐怖がやわらぐのを感じていたが、倉田医師や佐伯は容赦なく現実を突きつける。沙良の娘・沙莉がいるではないかと。二人の世界から沙莉を排除できるのかと。青年は、この問題の抱える矛盾を解消できない。加えて、再会した元彼女は同僚と結婚をし、お腹が大きい。どこにでもある、ごく普通の幸せとされる家族を営もうとしている。それは余命いくばくもない青年には実現しえない現実だった。沙良にも娘・沙莉という現実がある。この現実に正面から向き合うとき、「二人だけの世界」への信頼は揺らぐ。

元彼女との美しい思い出が幻想だったという残酷な真実を突きつけられた青年は、怒ったような振る舞いに紛れ込ませるように、沙良の「二人だけの世界」の風景を確かめようとする。首に手をかけたときの沙良の表情から、青年は自分が思い描く「二人だけの世界」との違いを悟る(この部分の解釈が割れるところですが、中山さんは、混沌は混沌のまま、視聴者に判断をゆだねるような表情をされたのだと思います)。その瞬間、青年は場を取り繕うような笑顔を見せる。冗談冗談。さっきの元カノの件、怒ってないよ、と。その笑顔を見て、沙良も笑顔になる。ちょっとやりすぎちゃったかしら、でも大丈夫よ、よしよし、と青年の肩をポンポンとやさしく叩く(ただの推測です)。

この「二人だけの世界」の意識の違いは、ラストのコンビニでの会話シーンで垣間見ることができる。砂浜で見たきれいな朝日を思い浮かべながら、青年は「二人で独占している気持ちになった。他に誰もいなかったし」と述べたのに対し、沙良は「いても一緒よ。たくさん人がいても一緒」と答える。青年の、他者の全く見えない、きわめて純度の高い絶対的な「二人だけの世界」のイメージに対し、沙良の「二人だけの世界」の周囲には他者の存在(=現実)が感じられるという点で青年と比較して濁りがあり強度も低い。現実(特に沙莉)を背負っている以上、沙良には心中はできない。少なくとも青年はそう考えた。

青年にとって、この「二人だけの世界」の亀裂は「死への恐怖」に直結する。しかしやっと巡り会えた運命の人・沙良との関係は壊したくない。そこで青年は、死の恐怖を周囲にひた隠しにしつつ、沙良と沙莉、この二人の救世主であり続けることを選択するのだ。「僕」は死ぬのが本当は怖くてたまらないのに、沙莉には「怖くないよ」と微笑む。命を天秤にかけることに苦悩する沙良には「(そんなふうに考えてくれて)嬉しいんだ」と声をかけ慰める。その救世主としての役割を演じるのが「俺」青年なのである。どうもとつよしは、それを青年の「やさしさ」と解釈して表現しているのだと個人的に思う。

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このドラマのキャッチコピーは「愛した時が、彼が死ぬ時」。日本語としてしっくりこないと感じていたが、「(彼だけを)愛した時が、彼が(安心して)死ぬ時」と適当に補足すると、割とすんなりと頭に入ってくるかもしれない。