はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

『プラトニック』と僕と俺

「プラトニック」第6話を見た。

※たくましい想像力で補っています。ああ、こんな解釈もあるかもね、と軽く読み流せる方だけどうぞ。

※助詞の間違い及び書き込み不十分で誤解を与えかねない箇所を見つけたので加筆しています。大意に変更はありません。(7月1日12:30)

前回、運命的な恋に落ちた沙良と青年。沙良は恋によって、これまで滞っていた感情が一気に流れ出したが、それは「女」の部分を大胆に増幅させることとなった(のじま氏の「女」の定義には納得しづらいものがありますが、便宜上このまま続けます)。彼女は、心臓移植のドナーが誰であるかを娘・沙莉に告げたり、NOと言わないゲームなるものを持ちかけて青年に昔の彼女と会わせたりするなど、以前とは別人のようなふるまいをする。倫理上問題のあることも可憐で残酷な少女の作法で遂行してしまう本当の私(=女)の出現である。

一方青年は、沙良と「二人だけの世界」=「僕とあなたの世界」に浸ることで、その瞬間は死の恐怖から救われていた。世界に二人しかいなければ、自分が忘れ去られるようなことはないからだ。青年は、深い安らぎを与えてくれるその精神の愛(プラトニック)をかたく信じようとしていた。

青年は、沙良に促されるまま昔の彼女に会い、別れの美談が、まるで砂でできた城のように、儚げに作り上げられた夢物語でしかなかったという現実を突きつけられる。青年は沙良に怒り口調で問いただす。

きれいな思い出なんて一つもない。全部俺の幻想だ。それをわからせて満足か。

ここではじめて青年の一人称「俺」が出現する。「俺」青年はその後、沙良に近づき首を絞めようとする。最初はきょとんと驚く沙良。困惑しているようだが、怖がってはいない。ただ、そこに「微笑み」はなかった。青年はその瞬間、自分とは違い、沙良が「この世界に二人だけ」とは感じていないことを知る。青年の幻想はまたしても打ち砕かれたのだ。そのことを薄々感じてもいた「俺」青年は、いつか砂の城のように崩れて消えてしまうであろう沙良の体に、すがるように抱きつくのだった。

「俺」青年はそれ以外にも本編に二度、出現する。一度は沙莉の病室だ。

君は俺に生きる意味をくれた。君のママは俺にたとえようのない安らぎをくれた。こわくないよ。だってもう、一人ぼっちじゃない。

 もう一つは、沙良とのコンビニでのラストシーン。

俺って残酷なのか、そんなふうにあなたが思うことさえ嬉しいんだ。あなたが俺のことで苦しむのさえ、幸せに思う。

絶望の淵のギリギリに立つ孤独な「僕」を、見たくないものに蓋をし、嘘で取り繕うことでかろうじて持ち堪えさせているのが「俺」なのだ。青年は、沙良が「僕」だけのためには存在していないという残酷な真実を悟ってしまったが、それをはっきりと認めてしまうと、目の前の(砂でできた)甘美な夢と安らぎはあっさりと崩れてしまう。青年は、はりぼてだろうが何だろうが、もう少しだけ、夢を見ていたい。自分の存在理由を留保したい。そこで「俺」が登場して、この世に必要とされる青年を演じる。自分で自分に言い聞かせるように。これは執着に近いのかもしれない。

第7話では、青年の生きる意味でもあった(のか?)「心臓移植」の可能性が揺らぐ。青年は生き続けることになるかもしれない。しかし、誰かにハートをあげられないのなら、それはただ生きているだけになってしまう(のじま的二元論)。

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どうもとつよしはミクロの次元で自分の表情を操ることができる。なのになぜ嬉しいとか幸せだとか言っている時に、こんなぼんやりとした顔をしているんだろうか(=レイヤーが透明ではなく、曇っている)という些細な疑問を頼りに、逆説的に物語をたどると上記のような「俺」青年像にたどりついてしまったのだが、こんなふうにドラマを見るのは健全ではないような気がする。それに、佐伯が推していた「世界に二人だけと思えるなら心中さえ厭わないし、あとを追うのがわかるからただ微笑むだけなのだ!!」説を沙良の気持ちのありようの根拠としてしまったが、これもクラブのママから教わっただけ、というのが、何とも心もとない。つまり、第六話は(も)よくわかりませんでした。もう疲れたよママン。