はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

関係性の取り扱い

11月12日にニューシングルがリリースされた。そのプロモーションの一環で出演した朝の情報番組を見て個人的に感じたことを残しておこうと思う。

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「デビューから17年、アイドル街道を突き進んできたあの二人組の魅力に迫る」と銘打って特集された5分程度のコーナー。二人組の魅力が3つの鍵により紐解かれた(らしい)。

一つ目の鍵は「暗い」。デビュー前後からの映像の後、収録スタジオでのインタビューの様子が映し出される。「昔から前に出る二人ではなかった」「今も昔も歌もそうですけど、暗いですね」。言葉とは裏腹に、表情には笑みが浮かんでいる。

二つ目の鍵は「2人」。二人のイメージを街頭インタビューする、という企画だ。「ファンと近いアイドル」「タイプとしては私は○○君が好き、娘は●●君派」「多人数グループではなく二人じゃなきゃダメ、みたいな」といった意見のあと、スタジオに向けて質問が投げかけられる。

「二人一緒にプライベートも過ごしているんですか?」

彼に、どのタイミングで異変が起きたのかはわからない。一人が「ないです、ないです。ライブ終わりにスタッフを交えてというのはあるけれど」と説明する間、カメラに映し出されたもう一人の顔はこわばり、表情をなくしていた。その様子に気づかない男性インタビュアーが笑いを含みつつ再度「二人だけというのは?」とたずねる。間髪いれず、低い声で「ありえないですね」と返す。さらに「はははっ。ありえないっていうのは、どうして?」との問いに、「嫌です」と強く断言。「・・・嫌?」「嫌だ」。

三つ目の鍵は「世界記録」。34枚目のシングルの詳細とデビューからのギネス記録についての、当たり障りのないやりとりがあった。場の雰囲気は和やかとはいえないが、決して悪くはない。

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二つ目の鍵「2人」に関する質問に意固地ともとれる反応を見せた彼は、その時、平静さを失っていたように思う(※この「彼」とは、このブログでいつも取り上げている彼とコンビを組んでいる彼です)。テレビの前の一般層の目には、バラエティ化された番組にありがちのワンシーンに過ぎなかったが、日常的に彼らをよく観察しているファンの間には、静かな波紋が広がっていた。

個人的には、彼の「嫌だ」の一言が、単に「二人一緒にプライベートを過ごすこと」に対して放たれたようには見えなかった。勝手な憶測でしかないが、その矛先にはおそらく、運営サイドのアイドル軽視のまなざしや過度のイメージの押しつけがあったように思う。彼は質問に答えたのではなく、質問に真正面から答えることを拒絶したのだ。

●アイドル軽視のまなざしとイメージの押しつけ

 新曲の宣伝のための出演だ。曲のクローズアップを期待したい。だが二人そろってのテレビ出演が珍しくなった昨今、二人の存在そのものを世間に思いだしてもらう必要がある。そこで過去を振り返りつつ現在の彼らに迫る方針がとられるのは理解できるのだが、そのアプローチに「仲の良さ」を持ち込む必然性はあるのだろうか。二人きりで過ごすかどうかの質問は新曲とはおよそ関係がなく、どんな回答であれ私生活についての好奇心をそそる情報の断片、いわばゴシップでしかない。もう世間に認知されて20年近くが経過している。なのに、またその次元からスタートさせなければならないもどかしさ。

ただ、音楽性が低級ととらえられがちで、曲がおまけの位置づけにある「アイドル」として出演してしまったのなら、そういった扱いはある程度は仕方がないという考え方もできる。同じ事務所に所属し、なかば公然と「関係性(=仲の良さ)」を売りにしているようなグループもいないわけではないし、その関係性がファンを魅了し、満足させている側面がある。いや、むしろ今はそれが正攻法なのかもしれない(他のグループがそうだと決めつけているわけではなく、それについて非難する気持ちもないのでこのあたりは文意をくみとってください)。

しかし、他のグループはどうあれ、現在の二人からは積極的に関係性(仲の良さまたは悪さ)を「売り」にする姿勢は感じられないし、事務所サイドにもその思惑はおそらくない。にもかかわらず「アイドル」「J事務所所属」と大雑把に括られ、平然と、安易に関係性を穿るだけの空疎な質問が飛び出す状況には見ていて違和感があった。オリンピックで活躍した女性アスリートの話題が、スポーツとは無関係の容姿や恋愛や女子力なるものに集約されてしまうのと似たような構造だ。そこには運営側の、その個々の対象への無関心と、潜在的な軽視が見え隠れしている。アイドルさんにはとりあえずこの質問ぶつけとけばいいんでしょ、仲良しエピソードの一つや二つ披露してくれるんでしょ、と。

彼は、そんな一方的な押しつけには、心の折り合いをつけられないのではないか。彼の真意や笑顔を引き出すには、色眼鏡をまず外した上での、その人自身や作品の本質の尊重が欠かせない。もう一人の彼の心境も、推して知るべし。 

誰のための幸せか---FUNK詩謡夏私乱を振り返る

私自身は参加できなかったが、雑誌記事やネット上でのファンの方々の反応を見て感じたことを書き記しておこうと思う。2014LIVEツアー『FUNK詩謡夏私乱』。※外部からみたひどく勝手な講釈ですので読んでいて合わないと感じられたらすぐにお引き取りください。

「過去最高にユーモラスで開放的かつ濃厚なファンクネスが打ち出され」、「メンバーとともに育み、強化してきたファンクミュージックが本当の意味で覚醒した」(『音楽と人』2014年11月号)

長年彼を見続けているライターが言うように、実際のライブはこのとおりだったのだろう。ファンの方々の評判もすこぶるいい。フロントマンたる彼自身も、演奏メンバーも、オーディエンスも、笑顔と幸福感に包まれていたのがわかる。

昨年あたりからだろうか。シングル『瞬き』の収録曲すべてのアベレージの高さに驚かされたのを皮切りに、アルバムもパンティのおまけも、公演中に発表された曲も、出す曲すべてが粒ぞろいという並はずれた状況が続いている。音楽にじっくりと向き合う時間はなかなか取れないはずだ。それでも経験と能力と高い集中力を駆使し、信頼できるメンバーに演奏やアレンジを適宜委ねることで、ハイレベルな楽曲をアウトプットし続けている。さらに、時間のなさという不利を意識的に「楽しむ」方向へとギアチェンジし、ツアー『FUNK詩謡夏私乱』を成功に導いた。

「ここまで自分を解き放つことができているとは予想以上だった」「音楽がゆっくりと、彼の心のガードを溶かしてきた」(『音楽と人』2014年10月号)

「人に対して心を開いた、彼が次に作る音楽が今から楽しみでしょうがない」(『音楽と人』2014年11月号)

彼は今回、みんなと楽しむためにライブをした。そして実際、本当に楽しんだ。みんなが笑顔と幸福に包まれた。とても素敵なことだ。だが、それを記事にあるような「心の解放」とみなしていいのだろうか。彼が雑誌やラジオで、今ツアーに関して「何も考えないように(作った)」と発言しているのが気になっていた。何も考えないことで、場に居合わせた人たちの身体的な一体感は増しただろう。しかし、それは心のガードが溶けたのではなく、心の切り離しがおこなわれたと捉えることもできる。

アルバム『shamanippon ロイノチノイ』が発売された頃、彼は自分自身の幸福について語っている。

親を想うことができて、仲間を想うことができて、応援してくれる人たちを想うことができる。それが僕にとっての幸福やなって思いますね。(略)でも、あわよくば、<shamanippon>ていうキーワードやグルーヴ感をいろんな業界の人が楽しんで、勝手に遊んでくれる日がくるといいなとは思っていますね(『音楽と人』2014年3月号)

 確かに、「みんな」がハッピーになる最近の楽曲やLIVEは、彼のいうところの幸福のど真ん中をいくのかもしれない。出来過ぎなほどに。しかし同時に、彼の心のうちが、見えにくくなってきている。気のせいと言われればそれまでであるし、彼があえてそうしているのなら何も言うことはないが、歌詩にしても音にしても、以前なら妙に耳に引っかかってきたパーソナルな部分の比重が減っているように感じるのだ。それは、経験を重ねることで詩や音作り、演奏や歌がうまくなったこととは関係がない。

心のうちを見つめる作業は、shamanipponプロジェクトとは分離していてもいい。ただ、細く長くでいいから、何らかのかたちで続けていてほしい。その、今は眠っている表現が「みんな」と分かち合えたとき、今以上の幸福が訪れる。

読書メモ『ポピュラー音楽の社会経済学』

『ポピュラー音楽の社会経済学』(高増明 編)を読んだ。「CDが売れなくなった」日本の音楽シーンをめぐる厳しい状況を、経済、ビジネス、技術、社会的観点から総合的・体系的に分析した一冊。読んでいて気になった点をまとめた。※個人的な関心に基づく断片的な要約ですので、気になる方は全編を一読されるのがよいかと思います。

第1章「日本の音楽産業の現状と問題点」

  • 日本の音楽産業でもっとも深刻なのは、音楽ソフトの生産額・販売額が急速に減少していることである。理由としては、一般に、音楽コンテンツのコピー、違法ダウンロード、購買層の高齢化などが指摘されるが、それらを本質的な原因と考えるのは間違っている。真の問題は、他の文化や消費財と比較した場合の音楽コンテンツの相対的価値が年々低下していることであり、音楽に対する人々のリスペクトが小さくなっていることである。
  • 制作サイドは、確実なセールスが期待できるジャンル(アニメ、アイドル等)にプロモーションを絞る。すると必然的に、その周辺的なジャンルは切り捨てられる。新しい音楽を創造しようとする野心的なアーティストも減少する。
  • また、景気の低迷をうけて、消費者の音楽的嗜好も、突出したものを好まずに、平均的なものにあわせようとする傾向が出ている。その土壌では、音楽に対する批判的なコメントや批評が受け入れられにくい。結果、同じような音楽コンテンツだけが市場に残り、大衆はそれを喜んで受け入れる構造が形成されている。

 第2章「日本の音楽産業の構造」

  • 本来、アーティストが新しい音楽を主体的に作り出していくのが望ましいが、レコード会社の規模よりも音楽を利用する産業(放送局、番組スポンサー企業、カラオケ産業等)の規模がはるかに大きい現状では、テレビ局やスポンサーの意向により音楽の傾向が決定されている。
  • また、アメリカと比較してもアーティストの印税は少なく、まるでプロダクションで働く社員のように、わずかな給料をもらって生活している。

第9章「2000年代の日本のヒットソングの構造分析」

  • 1980年代後半から、日本のポピュラー音楽の生産工程が劇的に変わった。歌手、シンセサイザー、コード進行という三つの要素だけで楽曲が簡単に構成でき、特別な演奏技術も必要とされなくなった。
  • 本来、ポピュラー音楽は自由な表現が許されている。しかしそのイメージとは裏腹に、メロディのパターン化と王道コード進行への依存による形骸化した保守的な生産工程を経て、同じような楽曲群が世に送り出されている。
  • これらの「ガラパゴス」化した楽曲群は、日本人の感性に合うというよりは、むしろ音楽を流通させる側の「刷り込み」によって、感動するように植えつけられたものだと言っていいかもしれない。日本の音楽シーンは海外の動向から乖離し、独自のものとなっている。

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以下、雑感。

11月12日発売の新曲をラジオで聴いた。ワンコーラスだけを聴いて決めつけるのもどうかと思うが、そのサウンドから「安定の」「王道の」「保守的な」といった形容詞が思い浮かんだ。良くも悪くも「変わらない」。彼らの曲や歴史を網羅しているファンの皆さんにとっては、もしかしたら何かしらの違いがあるのかもしれない。しかし一般層が聴くぶんには、ああ、また、あの感じね、と耳に引っかかりを残すことなく忘れ去られていく類の曲のように感じる。同じ「変わらない」にしても、昨年の「まだ涙にならない悲しみが/恋は匂へと散りぬるを」が確信犯的に「変わらなさ」を追求していたのに対し、今作からはこれといった戦略を見出すことができず、全体的にスケールダウンしているのが気になる(もちろん、この印象は今後くつがえる可能性がある。また、カップリングの堂島×CHOKKAKUが攻めることでバランスをとっているのかもしれない)。

この「変わらなさ」に安心する人もいる。もどかしさを感じる人もいる。評価は難しい。ただ、日本のポピュラー音楽をめぐる諸問題に、彼らも私たちも、巻き込まれている。

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彼らに関してはじめて購入したDVD/Blu-rayは、2011年1月1日の東京ドーム公演が収録されているものだった。時間がなくて繰り返し見ていないのが悔やまれるのだが、当時の何の前提知識もない自分が初見で気になった曲が「銀色暗号」だ。すぐさまクレジットを確認するためにパソコンに向かったのを覚えている。不思議な曲だと思った。聴きなじみのない曲だと思った。かたくなに隠秘な詞と、宇宙を彷徨うようなメロディに、背筋がゾクゾクした。まさかとは思いつつ、やはり彼らが作った曲だと知って驚いた。

DVD/Blu-rayで見る範囲でしかわからないが、彼らの作る曲はおもしろい(※つよしさん作詞こういちさん作曲を想定しています)。給料や世の動きを考えたり、権力に媚びる必要がさほどなかったからか、または人間性がそうさせているのか、まやかしや濁りがない。業界に当たり前に蔓延る慣習や大衆の意識に毒されていない。アレンジとの相性はあるものの、巷でヒットしているありふれた楽曲群とは一線を画している。彼らの合作を望む声が多いのも頷ける。

ただ、この潔癖なクオリティを守るのも大変なことだろうと思う。お手軽なパターンに依存しないぶん、生みの苦しみが増大する。彼らがイメージする「二人」像を存分に音楽で表現するための十分な時間と環境が、今の彼らに用意されているのだろうか。これは自作曲に限った話ではない。それらが整わない限り、無難な傾向は今後も続く。