はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

読書メモ 『承認をめぐる病』

斎藤環『承認をめぐる病』を読んだ。2009年以降に専門誌に寄稿した評論/エッセイの寄せ集めであり、内容は暴力、キャラ論、社会事件、精神科診療、哲学、アニメ等、多岐にわたる。根底にゆるやかに流れるテーマは「承認」。「他者の許しがなければ、自分を愛すことすら難しい。承認依存とは、つまるところそういうことだ(p.1)」。そしてそれは「”そうなるより仕方なかった”という構造的必然である(p.2)」。

もっとも印象的だった第13章『悪い卵とシステム、あるいは解離性憤怒』(初出『こころの科学』148号 2009年)について紹介したい。

現代社会のいたるところで人々がキレている。彼らはクレーマーモンスターペアレント、暴走老人などと呼ばれるが、著者はその「キレる」という現象を個人病理には還元しない。最大の問題は「自分がキレることを正当化する身振り」が一般化したためとし、構造的要因があることを強調する。

例えば、学校に対して理不尽かつ自己中心的な要求を繰り返すモンスターペアレント。こうした親が増えた原因として「保護者の消費者意識の暴走」の重要性を指摘する。消費者の意識で教育を捉える親は、同じ値段を払っているのに自分の子どもが他の子どもより損な待遇を受けることが我慢できない。

また、病院に出没するモンスターペイシェントの急増の要因として、「治療を受ければ必ず治る」といった医療技術への過度の期待、患者の権利意識の増大、学校現場と同様に患者の消費者意識の増大が指摘される。そこにマスコミが「あるべき教育」「理想の医療」を掲げて学校批判、医療批判を繰り返すものだから、親や患者の被害者意識が増大し、怒りにますます拍車がかかる。

ここで著者は疑問を投げかける。

奇妙なのは、彼らの怒りが「損をしたくない」という消費者意識に根ざしていることに加えて、その怒りがなぜか組織や権力そのものを標的としないことだ。キレる人々の怒りは、たまたま矢面に立った個人に集中しがちであり、本質的に彼らを抑圧し損をさせているはずの権力に対しては向かわない。(p.203)

この答えは、「システム」の表象のありように求められるという。モンスターたちは、教育システムや医療システムに対し、無根拠な全面的信頼を抱いている。システムにはあらゆることが可能であるという万能感の期待だ。ポストモダン(近代成熟期)のいま、システムは全域化し、システムとは単に利用するものではなく、「我々に存在根拠を与えるもの(p.205)」となった。私たちは日々、システムによって<生かされて>いる。システムと私たちの関係は共依存的な二者関係であり、いまやシステムは私たちの自己愛の一部に食い込んだ存在になりつつあるという。

われわれはけっしてシステムの無謬性と完全性を断念することができない。それゆえエージェントに対しても、万能性と無謬性の期待を投影せずにはいられない。(p.206)

こうした状況下では、システムが私たちの要求を満たしてくれないとき、事態に不釣り合いなほどの激しい怒りが噴出する。そこでは「完璧な(=良い)システム」と「不完全な(=悪い)エージェント※」の分裂(splitting)が生じている。※ここでいうエージェントは主に個々の教師や医師を指します。

システムは万能なはずなのに「悪いエージェント」のせいで一方的に自分が損をさせられるという迫害不安や被害妄想が生じる。このときわれわれはシステムではなく「悪いエージェント」を憎み、徹底して破壊してやりたいという激しい攻撃性を向けるほかはなくなるのである。(p.206)

 しかし当然ながらエージェントは生身の個人であり、システムの完全な(完璧な)代理人となることはできない。にもかかわらず、モンスターの攻撃の矢面に立ち続けている。著者は、いかなる構造的な対策が立てられようとも、それがシステムを補完することにしかならないという理由で、この問題の解消が困難であるとしている。できることといえば、エージェントをいかに擁護するか、そのロジックを問うことだけだと。

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以下、所感。

アイドル界隈も、一種のシステムだ。アイドルシステムは、タレント、事務所、ファン、マスメディア、音楽出版、興行全般、芸能界、その他多くの要素で構築されている。ファンはファンクラブに入会し、コンサートに行き、CDや雑誌やグッズを買ったりしながらタレントを消費する(ただし金銭を使わずともテレビなどからアイドルイメージを消費することはできる)。システムは日常生活に入り込み、ファンにとってはなくてはならないものとなっている。

このアイドルシステムに綻びが見えたとき、例えばファンの要望を満たしてくれないとき、どうなるだろうか。期待が過度であればあるほど被害者意識が芽生え、不満が怒りに変わる。システムは万能なはずという無根拠な信頼があるため、その怒りは権力や組織(ここでは事務所や業界のありよう)に向かわず、エージェントに向かう。AKBの場合、このエージェントは秋元氏にでもなるだろうか。例えが古いがモー娘ならつんく氏。J事務所の場合、恐ろしいことに、エージェントとして機能しているのがタレント個人なのだ。

J事務所所属の彼らは、Jという一大システムの中で、タレントとしての完璧な働きを期待されるだけではなく、システムの万能性への期待をも背負わされている。「こうあるべき」アイドル像をファンや世間から投影されるだけでも大変な業務だと思うのだが、システムにひとたび不具合が生じると大きな負荷が彼らにのしかか(っているようにみえ)る現状は、生身の人間としての限度を越えているように感じる。

【レビュー】M album

KinKi Kids 約一年ぶりの新作『M album』は前作に引き続き二枚組。アイドルポップスとしての会心作に仕上がった。

主に新曲で構成されたDISC1「Moments –瞬間-」は、作詞作曲アレンジャー陣から「わかりやすい」ビッグネームが消え、新進若手ミュージシャンの台頭が目立った。歌詞から浮かび上がるのは30代と思しき等身大の青年像。青春期を過ぎた「僕」と「君」の素朴でリアルな関係は、虚像としてのアイドルKinKi Kids を身近な存在へと引き寄せる(ただしサウンドにはさりげなくキラキラとポップな仕掛けが織り込まれ、アイドルソングとしての体を崩さない)。

トレンドを意識しつつも耳馴染みがよい楽曲群の中で、作家性が強く打ち出されたM5「SPEAK LOW」とM9「Glorious Days~ただ道を探してる」が異彩を放つ。この2曲の歌唱は他のグループでは代替不可能だろう。コンペ形式で良曲を揃えるのも一つの方法だが、今後は堂島孝平氏やU-Key zone氏ら同世代の実力派ミュージシャンとじっくり組み、共同プロデュースというかたちで音楽性を模索するのも面白いかもしれない。

対するDISC2「Memories –記憶- 」は、リアレンジによるセルフカバー。初期の曲やヒット曲等、コンサートでも常連のナンバーが並ぶ。大物アレンジャー陣が手がける名曲群はいずれも重厚で潤沢。80年代のA級アイドルが気鋭のクリエイターに支えられていたさまを彷彿とさせる。DISC2のKinKi Kids は、手の届く身近な存在ではなく、虚像としてのアイドルの立ち位置にいると言えよう。

過去の名曲の「再生」としてのリアレンジが多いなか、「再解釈」としての働きが強かったのがM6「愛のかたまり」(次点でM5「もう君以外愛せない」)。冬の凍てつく空気と愛の深さがせめぎ合うような奥行きのあるアレンジが曲中の登場人物のイメージを一新させ、原曲に時代や年齢を超える普遍性を備え付けた。

Memories&Moments。この二つのコンセプトの両立は、長期にわたり第一線で活躍している者にのみ許される。さらに重要なのが、歌い手としての表現力の向上。それらを難なくクリアし、風格すら漂わせる彼らに、今後どのような音楽が待ち受けるのか。アイドルとしての存在のあり方と合わせて注目したい。

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それにしても、歌が上手い。また一つ、階段をのぼったようだ。

今さらながら、自作の詩と曲がいい。歌詞カードを眺めてはじめてわかる言葉の濃度と密度。アイドルと呼ばれるジャンル出身で、記念碑としてではなく、(言葉は悪いが)商品となりえるレベルの詩を継続して世に送り出せているのは斉藤由貴さん以来なのでは。曲とのフィット具合がこれまた尋常ではなく、何年先でもいいから、合作をただただ待ってみようという気にさせられる。

硝子の少年はどこへ向かう

11月28日のMステを見た。披露された曲は、12月10日発売ニューアルバム収録の『SPEAK LOW』(堂島孝平氏の作詩作曲編曲)だった。ブラスを交えたバンドの音はファンキーでゴージャス。そこに程よく抑制のきいたヴォーカルがのることで、たおやかな色気と唸るような渋さが発生した。歌唱も演奏もステージングも終始高いクオリティを保ち、一般視聴者へのインパクトは大きかったように思う。もちろんファンにとっても、繰り返しの鑑賞が不可避の素晴らしいパフォーマンスだった。

歌詩に注目すると、「カナシミ」「青」「口づけ」「瞳」「涙」「確か」などの単語が、同じく堂島氏が作詩作曲を手がけた『カナシミブルー』(2002年)を彷彿とさせる(※というか、氏の他の提供曲も同様の傾向なのかもしれませんが勉強不足で知らないのです。すみません)。歌の主人公が置かれている状況は『カナシミブルー』と『SPEAK LOW』とでほぼ同じ。恋人と別れた直後で関係の修復はほぼ諦めているものの未練もあり、あわよくば口づけを交わすことで戻ってきてはくれないだろうか、などと淡い期待を抱いている。

違うのは主人公の年齢設定。『カナシミブルー』では何とかよりを戻したいという気持ちが強くまっすぐに描かれるが、『SPEAK LOW』ではあからさまな心境の吐露は少ない。相手を恋慕する気持ちと並行して、年齢や経験を重ねた者独特の達観という名のあきらめが感じられ、さらには思い出の美化などもはじまっているようだ(※あくまでも個人的な印象です。歌は各人自由に楽しみましょう)。

Mステのステージで漂った色気は、若者のもつギラギラとした欲情とは一線を画す。冬の公園で一人ベンチに座るお疲れ気味のサラリーマンの、その落とした肩や漏れたため息から醸し出される哀愁のエロチシズム(とでも呼ぼうか)と同じ類のものだ。酸いも甘いも悲哀も知った者からしか発せられない空気が、曲のもつ情感と見事にマッチしていた。これはBメロの「何もかもを拭い去って 大切なことだけをどうか 胸に取り留めておきたい」の「胸に」の「に」の歌い方に集約される。アクセントをつけつつも吐息混ざりのこの「に」に、情熱や苦悩、混沌、やるせなさ、自嘲までもが込められている、といったらいくらなんでも大袈裟か。それはさておき、つくづく『SPEAK LOW』はミドルエイジ一歩手前の彼らにぴったりの曲だと思う。

シングル『鍵のない箱』のような王道の(?)マイナーアップテンポの曲調でなくても、「硝子の少年」という強固すぎる初期イメージを崩すことなく、引きずることなく、無理なく進化させる表現が可能だということが立証された。今回のMステでのパフォーマンスが、今後の方針を定める上でのターニングポイントになるのかもしれない。