はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

『プラトニック』の青年

ドラマ終了から時間が経過し、視聴者それぞれの『プラトニック』熱が冷めてきたような気がするので、少し個人的なことを書きたいと思う。

思えば、『プラトニック』をドラマとして楽しめたのは初回のみだった。第二話では私個人の「地雷」に触れるシーンが多く、いくらファンタジーと言われようとも頭の中は冷え切ってしまい、とうとう最終回まで淡々と画面を見つめることしかできなかった。冷えた頭では俳優陣と登場人物を一体化させることは困難で、独自な方向に走る物語を好意的に受けとる余裕も持てず、このブログでの『プラトニック』に関する記述も突き放したところが多くなってしまったように思う(なので、これまで不愉快な思いをさせていたなら申し訳ないです。このドラマが好きだ、素敵だった、という気持ちを否定する気は全くありません。ことの発端は、ごくごく個人的な私自身の感覚・感情から生まれたものですから。ただ、どうもとつよしさんの演技に引き込まれたという点では共通していると思います)。

そんな前置きを残しつつ、青年とは何だったのかを考えてみた。最後まで見たからには整理しておきたかったのである。ただ、しばらく自宅を離れているために手元に映像や資料がなく、印象的な場面だけを脳内で再現しただけの、客観性に欠ける青年像に過ぎない。特に美しくもなんともない。素敵な青年を心に留めておきたいかたはお引き取りください。

 

青年はそもそも、弟と自分とを常に対比している。自然と愛される弟に対し、愛されない自分。相手に何かをしなければ価値を認めてもらえないという考えに発展しており、脳腫瘍で余命わずかという宣告は、自分の心臓を最大限活用し、自分自身の「生」の意味を確認できる(=生を肯定する)絶好のチャンスだったと言える。ターゲットは「必死なママさん」。心臓をあげたら何だかものすごく感謝してくれそうだ。

そこで出会ったのが沙良という女性。青年の心の声を聞き、孤独な世界を共有してくれる運命の人だ。青年(=僕)は弟との比較ではなく「自分だけ」を見てくれる沙良と恋に落ちた。

この沙良という人物は、誰かに100パーセント尽くすことで不安定な自分を支えてきたという人生をたどっており、青年に出会う以前は、その愛情は娘・沙莉に向けられていた。愛情の矛先を確保するためなら夫に浮気をさせ、家庭を崩壊させるのも厭わないという、なかなかの破壊屋だ。独占欲の強い沙良は、青年が、絶望の中での一縷の望みとして作り上げた元彼女との美しい思い出(思い込み)も容赦なく打ち砕く。

絶望を突き付けられた青年は、もしかしたら沙良にも裏切られるのでは、見捨てられるのではという恐怖に襲われ、だったら何もかもなくなってしまえばいい、という破滅的な思考により沙良の首に手をかける。青年にとって、自分が無価値であることは死よりも怖いことだった。けれど手に力は入らない。二人だけの世界に没入している青年にとっては、自分の価値を認めてくれるのもまた沙良しかいなかったからだ。

※どうでもいいことですが、この砂浜のシーンの解釈は、今回は、エヴァンゲリオンのシンジがアスカの首を絞めるシーンをめぐる考察を参考にしてみました。

脳腫瘍が小さくなるドラマ後半は、青年の生きるか死ぬかの葛藤が描かれる。生きるといっても、心臓は提供せずに青年流にいえば「ただ生きる」だけの無意味な生であり、死ぬといっても、心臓を提供することで「自分の価値を見いだすことができる」死である。この葛藤に引き裂かれているのが弟に電話を入れるシーンであり、どうもとつよしの演技を見るという点では最大の山場だったように思う。

沙良との「二人だけの世界」観が微妙にずれていたり、二人だけと言いながら実際は沙莉の存在を考えなければならない矛盾した状況だったり、腫瘍が小さくなって「離婚しましょう」などと言われて沙良の現実をとるかたちになったり、他にも深く考えだすと不可解な点がいくつも出てくるが、青年は何があっても沙良との「愛」や「運命」や「二人だけの世界」を疑わない。いや、疑ってはいけない。疑った瞬間、自分の価値を認めてくれる唯一無二の相手(と思われる人)が消え失せるからだ。すなわち、両親に愛されてこなかった「孤独」の世界に舞い戻ることになってしまう。

総括すると『プラトニック』は、寂しい青年が、自分の心を満たすために、沙良という女性を相手に自らの創造した美しいストーリーをなぞり、周囲を巻き込んだ末に自己完結する、という内容の、ある意味では子どものわがままのようなドラマだったと個人的には思う。それをどうもとつよしが、青年の生い立ちや境遇を丁寧に掘り起こし、青年にそっと寄り添い、青年の行動や感情を自己満足ではなく他者への「やさしさ」として表現したものだから、青年像に厚みと温かみが出て、人々の心に棲みつくような魅力的な青年ができあがってしまったのだと考える。これは野島氏にとって嬉しい誤算だったのか、または確信犯的な起用だったのか。おそらく後者、なのだろう。

--

それぞれの葛藤に目をつぶるのではなく、二人でわかちあい受容しあえていたなら、同じ「死」を迎えたとしても、あんなに後味の悪いことはなかったように思う。

--

「僕」「俺」「私」の区分も、今となっては重要だったのかどうかよくわからない。フロイトの言葉を借りるならば(入門書レベルの浅い知識で適当につじつまを合わせようとしているだけなので真剣に読まないでください)、「僕」は「過酷な超自我」みたいなものだろうか(沙莉との会話で出る場合は、彼女の年齢を鑑みて、の場合がある)。両親や周囲のなかで育まれた「こうあるべき」理想の自分。「僕」はいつもダメな人間で、いつも孤独で、苦しんでいた。「僕」は「エス」の心の叫びでもある。ただただ愛されたい、見てもらいたいという、赤ちゃんの心のような生への源泉だ。

「俺」は現実とのバランスをとりながら生きる「自我」に該当し、脳腫瘍で死(というか自分の無価値)に直面させられた恐怖のあまり自我からその感情を切り離すという「分離」症状が出た結果、「私」なる合理的人間が誕生したのではないかと勝手に推測している。

--

何だかんだ言っても、『プラトニック』を視聴し、ネット上で多くの方々の感想や解釈に触れたことは、自分自身の物語のとらえ方の癖や人生観のようなものが炙り出されたという点で貴重な経験だった。