はみだしつば

堂本剛さんに関する一つの見解

停滞の事情、他

気づけば、ブログを開設してから一年以上が経過していた。当時と現在を比較すると、記事を書きたいという意欲が低下している。その理由を探ったので、正直に綴ってみたい。

まず、単純に私自身の時間的余裕がなくなった。これはどうでもいいことなので詳細は割愛したい。

次に、(メディアを通して)どうもとつよしに触れる機会が極端に減った。『新堂本兄弟』終了により、週末の夜に(半ば強制的に)彼を見ることがなくなった。いやいや、『ブンブブーン』があるでしょ、という意見があるかもしれない。しかし、自分は見ていない。正確には毎週録画しているが、再生することがない(しかも一週間経過すると消去する)。これはなぜかというと、バラエティ番組における彼には最初からほとんど興味がないからだ。より興味があるのは彼の表現するもの、あるいは彼をとりまく環境や社会であり、ルックスや人柄は私の中で一段落ちる(関心レベルの問題であり、決して彼のルックスや人柄にいちゃもんをつけているわけではありません。むしろすごく好きなのです)。歌や演奏を披露してくれることもあった『新堂本兄弟』とは違い、音楽との接点がないように思われる現『ブンブブーン』には食指が動かず、彼の姿を見る機会がなくなり、何となく忘れている。問題意識も薄れ、記事の更新も滞る。これが今の私の現状だ。

いやでも、テレビで見なくてもSNSで他のファンの方々と情報交換や交流をしていれば忘れることなんてないでしょ、という意見もあるかと思う。そう、その通り。今の時代、ファン同士のつながりが、ファン活動のモチベーションを高めている。けどね、していないんだこれが。だから、メディア露出を取り上げられるのは痛手だった(正確には『ブンブブーン』があるものの)。

--

何だかつまらない話をしてしまった。これだけだと、ここまで読んでもらったことが申し訳ないので、ずいぶん唐突だが、私の選ぶ『堂本兄弟での、どうもとつよしの衣装ベスト1』を発表したい。とはいえ、一期一会的ともいえる視聴スタイルを持つ自分は録画保存をほとんどしないため、記憶頼みという心もとないことになっている。だから今から述べる衣装も脳内補正というか、多少の勘違いが入っているかもしれない(何だそれ)。それはさておき、発表したい。

あの日の衣装は、おそらくレディースものの、モンドリアン柄のワンピースだった。薄手のニットのような素材で、首元はタートル、ボトムスは黒っぽいタイトなパンツ。足元は少しヒールの入った細身の靴。髪型はshamanipponのふんわりとしたパーマヘア。口元に指をよせて微笑む姿に、神々しさを感じてしまった。とても似合っていたし、この着こなしをできる人はそうはいないと思った。ゲストはAKB界隈のかただったように思う。と、勿体ぶった割にはおぼろげな表現で恐縮だが、感覚を共有できるかたがどこかにいると嬉しい。

不毛な質問

テレビや雑誌の取材側は、なぜ男性アイドルに好きな女性のタイプや結婚観を質問するのか。常々、疑問に思っていた。取材対象となるイベント(例えばミュージカルやコンサート)の話題よりも、恋愛系の質問がクローズアップされ、時間も長く割かれがちだ。視聴者や購買者のニーズをそれなりに踏まえてのことなのだろうが、その情報を「本気で」欲しがる人が果たして多く存在するのか。

たとえば、ファンになりたての人や、アイドルに擬似恋愛的な感情を抱き続けているファンなら、好きな女性のタイプを知りたいのかもしれない。けれど芸能界に長くいればいるほど、ファン層は徐々に見守り型や観察型、家族的扱い型に移行していく(たぶん)。ファンも長く応援しているからこそ、質問の内容や切り口にもたまにはバリエーションが欲しいと願うものなのではないだろうか(もちろん、恋愛系の質問があってもいいし、知りたい人もいることはわかります。ただ、自然な文脈と適切な頻度というものがあるでしょうという話で)。

そもそもアイドルは(一応は)恋愛がタブーとされている。だからアイドル然として取材を受ける以上、その枠組みの中でしか答えようがなく、その返答は表層的なものや具体性を欠くもの、あるいは質問から若干ずれているものになってしまう。例えば、好きな女性のタイプを聞かれているのに、苦手な女性のタイプを答えたり、内面を磨いてほしいなどと大雑把だったり、結婚観が二人の結婚生活ではなく、親に孫の顔を見せたい的なことだったりする。そこにお相手の女性の具体像は見えてこない。

これはファンとアイドルイメージへの配慮であり、テレビなどの公の場で適用されると一般視聴者にはひどく退屈だ。彼らがファンの方を向き、ファンのこと(だけ)を考えている姿を見せつけられるのだから。そしてしばしば、アイドルはファンに対する体裁を保つことに集中するあまり、一般人から持たれてしまうであろうイメージに対して無防備となる。ファンには伝わる言葉が、一般には全く異なる意味に捉えられたりする。このバランスを乗りこなすのはとても難しいし、毎度苦慮しているのだろうと想像する。

そういったわけで、アイドル、特に若くはないアイドルに恋愛・結婚話を振ることが個人的には不毛に思えるのだが、メディアの取材側は毎度毎度、飽きもせずに似たような質問を繰り返す。男性アイドルは女性ファンの恋愛対象でしかなく、女性ファンも、そういった質問さえあれば満足するだろうとでも思っているのだろうか。それでは恋愛要素以外の多くの部分をカバーしているアイドルに失礼だし、女性にしたって「恋に夢見る存在」でしかないと社会から断定されているようで気持ちのいい話ではない。ただ、事務所サイドから「質問は恋愛系で」と通達している可能性も否定できず、だとしたらますます根は深い。システムの綻びをタレント個人の努力でどうにかできると思っているなら虫がよすぎる。

--

社会学者・東園子さんの論文「『宝塚』というメディアの構造」の中で、タカラジェンヌという存在が「役名」「芸名」「愛称」「本名」の四つの層が折り重なって成立しており、そのうちタカラジェンヌの素顔(オフ)にあたる部分が「愛称」と「本名」の二つに分離することが指摘されている。「愛称」としてのタカラジェンヌの存在は、オフの顔とはいえファンに公開された顔であり、「清く正しく美しく」のイメージに沿うよう、たとえばテレビのトーク番組で恋愛系の質問をされても恋愛をしているかどうかを公にしない姿勢を貫く。実際のところ恋愛は自由なのだが、恋愛という(特に男役の)イメージを損なうような不都合な情報はすべて、ファンには非公開の「本名」の存在に帰属させるのだという。ファンもそれを了承済みだ。

このシステムをそっくり真似てほしいとは思わないが、タレントの負担は相当軽減される。ただ、所属タレントのほぼ全員の芸名と本名が一緒という、公私の区別すら曖昧なJニーズ的あり方を考えると、まだまだ遠い話なのかもしれない。

「語られにくさ」をめぐる試論(アイドル、ファン、作品)

書店で何気なくパラパラとめくってみたこの本(『日本の男性シンガー・ソングライター』)。『日本の音楽シーンを彩った、男性シンガー・ソングライターたちの肖像を完全網羅』と内容紹介にあるとおり、60年代以降の男性ソロミュージシャンを、代表作のレビューとともに総覧できる。ときに愛に溢れ、ときに厳しく冷酷に、有名どころはもちろんのこと、知名度は高くなくても、まだ若く実績がともなっていなくても、業界内での評価の高いミュージシャンには相当な紙面が割かれている。ポピュラーミュージックの範疇にある限りは、細かい人物も丁寧に拾っている印象だ。ところが、完全網羅をうたったこの本の目次に「どうもとつよし」の名前はない。

彼を、純粋にミュージシャンとして取り扱うことは難しいのだろうか。ソロでの音楽活動とグループでの活動の方向性が違うと知っているのは、いまだ一部の人間にとどまる。いや、この本に携わる人々は知っているのかもしれない。自分で曲を書き、発表し、自分で歌い、表現をする。やっていることは、列挙されているミュージシャン陣と何ら変わりはない。それでも、ミュージシャンとしては扱えない。批評できない。この排除はどこからくるのか。身内から、という議論はさておき、やはりアイドル出身であること、いまなお現役アイドルであることが、彼を批評の文脈から遠ざけているように思う。※ある一つのものの見方の提示に過ぎないことを御承知おきのうえ、お進みください。

ファン以外の人間にとって、アイドルを語るのは難しい。ファンがアイドルを語る際にはその評価軸に「人格」のようなものが組み込まれているが、ファン以外の人間にとってはその評価軸はないに等しい。だから素朴に評価してしまうと、タレントイメージやファンにダメージを与えかねない。アイドルは究極には「存在するだけ」で成立するのであり、ファンにとってはそれが癒しとなる部分があるからだ。だから歌でも芝居でもバラエティでも、頑張っただとか努力しただとか、かわいかっただとかが十分に評価の対象となる。裏を返せば「批判」はファンにとってタレントの人格批判に値するくらい重いものともなる。作品やスキルへの順当な評価であっても、心ない言葉と受け止められるおそれがある。ことに、それがタレント自身が生み出した詩やメロディ、奏でる音色、センスといった生身に近い部分に向けられるものだったらどうだろうか(話は逸れるが、アイドルの作品が、レコードや容姿や舞台上のパフォーマンスに限らず、生きざまから非公式のちょっとした振る舞いまで想像できるすべての物事に及ぶのだと考えると、つくづく大変な職業だなと感じる)。アイドルとファンは一体であり、ファンが受け取る作品もまたアイドルと同一なのだ。アイドル・ファン・作品の三位一体と対峙することのややこしさ。独特の土壌。どうもとつよしの音楽の語られにくさは、このあたりに起因する。

以前、アルバム『カバ』が発売された頃、まきたすぽーつ氏のラジオ番組(はたらくおじさん)で彼の音楽が特集され、あれこれと考察されていた。シニカルさが蔓延していたため、聞いていて不快な思いをした人も多かったように思う。しかしここで、構成作家が番組終了直後にはなったtweetを紹介したい。

はたおじ終了。賛否はあれど葛藤しながらも受け止めてくれるファンの方もいた。アーティストはちゃんと世間に晒されて評価されたほうがいいし、これをキッカケに見方が変わる番組リスナーもいるはずと思ってやりました。まだ本質は見えてないからこそ興味深いし今後も取り上げていきたいと思います。(スーパーモリノ@super_morino 2013年6月9日)

どうもとつよしは、番組内でアイドルではなくアーティストとして取り上げられ、批評された。ミュージシャンであれば普通の状況なのだが、彼やファンにとっては貴重な瞬間だ(もちろん、一部の音楽雑誌では真正面から取り上げてもらっているが、商業雑誌ゆえに庇護されている部分もそれなりにあるように思う)。作品がいくら彼の手から生み出されていようとも、本人とはある程度切り離して考えるのが健康的であろうし、風通しがいいほうが、作品も作者も状況も磨かれていく。

作品とは、それを作った者ですら自由にはできない、むしろ作り手である自己を厳しく対象化した一種の批評行為であり、けれどもそれゆえ、それを作った者以外の誰もが、それについて自由に語ることができる、共有の存在でなければならないのです。

椹木野衣『反アート入門』p.65)

かりに、ある画家の絵がどんなに高値で売れたとしても、またある小説家の書物が、どんなにベストセラーになったとしても、それだけでは作家の不安は解消しません。むしろ、売れれば売れるほど、自分の作り出したものに、ほんとうに価値があるのかどうか、不安は高まっていくことでしょう。その人の作品が売買だけで一向に批評の対象となっていないとしたら、その不安は絶大なものとなるでしょう。

(同 p.31-32)

今後、海外でツアーをおこなうことになれば、無遠慮に「語られる」「批評される」機会は増えていく。これまで表に出てこなかった、人格から離れたところを指す忌憚なき意見に、彼は「手応え」らしきものを感じるだろう(彼はもちろん常日頃ファンが喜んでくれていることや応援してくれることにも大きな感謝を感じているだろうが、それとはベクトルの違う話だ)。その手応えはおそらく、大きな変容をもたらす。それでも彼がアイドルであり続ける限り(というか、彼は一切合切を舟に乗せようとしている)、見守る者にはそれなりの耐性が求められていく。